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教育課程

木の花暮らしでの育ちの道すじ|2018年度版

明治38年(1905年)、金沢の街中の武家屋敷に生まれた木の花幼稚園は、昭和の高度成長期には園児数300人を超える時代もあれば、少子化と街中のドーナツ化で30名を切り閉園の危機を迎えた時代も・・・。現在は100名ちょっと園児で子どもから子どもへと遊びの文化を伝えて今に至っています。

子ども時代を子どもらしく、その子らしく生きる

 土に触れ、風を感じ、草花を摘み、虫を捕まえ、畑の野菜で料理をし、木陰の下でランチを取る。年長さんが飼っているカメが脱走すれば、園内中を大捜索。それでも見つからずポスター作ってご近所のお店などに捜索依頼に出向き、2週間後に園庭で発見!その後カメコハウスの建築に試行錯誤。下の学年の羨望を受けながら2月費やしてようやく完成・・・。カメコハウスに住むカメの飼育は今の年長さんが引き継いでいます。

 

 突然のハプニングも保育の題材(テーマ)になり、そこから様々な出会いと取り組みが生まれる。だからこそ生活を創る主体者(主人公)としての自信と自立、協同する力、あるいは文字を扱うことの意味とスキルも(結果として)身についていく・・・・そんな木の花暮らしを組み立てる上で、今、念頭に置いていること。それは子どもの育ちの環境への危機意識です。ゆとりのある時間、冒険でき遊び込める空間(環境)、異年齢の多様な人との出会い、拠り所としての文化や風土・・・そうしたものは子どもの回りからどんどん失われています(注①)。だからこそ、今の家庭や地域で出来ない生活、遊びを幼稚園が引き受けて、「子ども時代を一人一人子どもらしく生きる、その子らしく生活する」場を意図的に創ることが、より一層重要なことと考えます。

カメ脱走でご近所への捜索依頼

①子どもの育ちの環境

 今日の高度情報社会は、都市化と核家族化(少子化)が進行する中で、SNSを始めIT社会による情報ツールの利便性が高まる一方で近隣や地域のお付き合いが減り大型スーパーやコンビニで必要なもの(不必要なものまで)が簡単に手に入る時代です。バーチャルな仮想現実と虚実の情報社会に本物体験の喪失が急速に進み、子どもの遊び場は整備された公園かレジャー施設ばかり。人との関わりや物、自然などの直接体験がないままに育つ環境が当たり前になりつつあります。身近な神社の境内や空き地、雑木林や小川で異年齢の子どもたちで遊び、大人に叱られながら様々な遊び方、世の中の「道理」を身体で学んできた一昔前の環境と隔世の感があります。

 自殺やいじめ、ひきこもり、児童虐待や様々な青少年犯罪、孤食や肥満の増加、子どもの貧困、体力低下や身体能力、バランス感覚等の劣化、あるいは無感動、無関心、無気力症候群などの心の問題。自己肯定感が世界的にも低いのが日本の若者という調査結果も(その結果としての若者の自殺率の高さ)。現代の競争社会の中で子どもたちが「脅迫」的に追い立てられ、「子ども時代」を見失い、子どもの子どもらしい育ちの場を脅かされ、様々な諸問題を噴出、蔓延させていないでしょうか?

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子どもから子どもへ…遊びの文化が学びの土台

   「子ども時代」(注②)は発達課題として学童期とも異なり、乳幼児期特有の「遊び」を中心に成長、発達する時期です。「子ども時代」の「子どもらしさ」の体現は、遊びそのもの。遊びこんでこそ、子どもがその後の人生を生きる術(学び)を様々に培います(注③)。「その子らしく」は一人ひとりの個性ある育ち。「みんな違ってみんないい」、均一単色でないその総体が豊かさあふれる幼稚園生活の彩と考えます。遊びを通じた子ども一人一人の物語が日々無数に生まれ、繋がり、変化と、展開、融合を重ねてまた新たな物語に繋がっていく園生活。
 そんな子どもたちが主人公としての木の花暮らしのキーワードは多様性と連続性。一人一人の興味関心に基づく多様な「テーマ」が縦横に生まれ、結びつく、そんな「流れ」のある日常の連続性が先ず、基本的に必要です。

日々、一人ひとりの無数の物語が生まれています

②「子ども時代」とは…

 そもそも人の成長に「子ども時代」はなぜ必要なのでしょうか?個体の一生の前段階は、発生から種の進化を繰り返すという生物学上の仮説的原則があります。受精卵の着床姿は魚類のそれに酷似し、胎児はやがて他の哺乳類、霊長類、そして人類の胎児の姿になって生まれます。母体の中で人類の進化の歴史が繰り返され、出生後の成長発達が人類の歴史を踏む過程と近似しています。二足歩行、言葉の獲得、つかむ、ちぎる、たたくなどの作業が可能になり、道具を作り、火を操り、衣服を作り、住居や食べ物を作り、集団で暮らす・・。こうした姿は幼児の遊びを中心とした生活と瓜二つ。人類発達の経過を乳幼児期に繰り返す、未開社会を追体験することが幼児期のもっとも合理的な学習の道程です。

 興味関心→探求→発見→獲得という人類史の過程を遊びの世界で追体験し、本来持っている発達課題が体得されていきます。汚れたり投げたりちぎったり…原初的な遊びをしっかり体験し、モノを操作し、人と関わり、遊びこむ中で、粘り強さや集中力、協働や共感などの非認知的な力を培い、抽象的な思考を楽しめる次の段階(「10歳の壁」)での認知的なスキルが伸びていく土台を作ります。この非認知能力の幼児期における育成の重要性が、発達心理学のみならず脳科学、教育経済学者など他分野からも注視されています。

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多様性と連続性のある生活の場

   時間の流れは時間割で「お絵かき」、「体操」、「リトミック」…等々一律にテーマ設定され、時間を区切られるのではなく、子どもたちの生活の中の「テーマ」が活き、子ども自身が必然性を感じる「流れ」を大事にしたい(注④)。情報処理が未分化で丸ごと遊びを通じて体験することで情報を整理し蓄積していく段階である乳幼児期ならば、そうなります。
 また空間は明確に仕切られるのではなく繋がっている連続性と多様な環境を大事にしたい。人との出会いもまた連続的であると同時に多様な(時には大人も)関係を結べる場に。学びの蓄積、「引出し」の広がりと深まりが本質的にその子のものとなるためには、子どもが主体的、自発的に関わる連続性のある多様な体験とその質の深まりが重要と考えます。

「粘土土」の発掘と派生展開する多様な遊び

③遊びが学びとは?

 そして、興味関心→探求→発見→獲得というサイクルを体験するのが「遊び」。主体的、自発的に行う「遊び」を体験してこのサイクルを子どもは感覚的に身につけていく。だからこそ、遊びは「生きる力」を育てる、と言えます。そしてポイントは、「テーマ」設定が主に子どもに任され、与えられた環境から自分で「テーマ」をみつけられることです。「テーマ」がいっぱい潜んでいる場こそが豊かな環境。したがって、使い方の決まってしまう、答えの用意されている遊具、子どもを誘導してしまうような、大人の想定する限定された枠での環境設定は避けたいし、家庭あるいは地域では体験できないまるごとの体験を生かしたい。遊びの創造性を無限大に発揮できる実験場として幼稚園生活を用意したい、と考えます。結果的に「○○の力が育つ」のであって、幼児期ははじめに大人の想定する到達度設定ありき、ではありません。

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「流れ」のある日常に「非日常」の織り込まれた生活

   木の花暮らしの柱の一つは、「流れ」のある「連続性」としての生活。そのうえで時にはドキドキするような「非日常」的な出来事を織り込む生活、それが木の花暮らしの柱のもう一つの柱(注⑤)。子どもが安定的に遊び、日常生活を送りながら、なおかつドキドキするような「非日常」的な出来事が待っている、そんなメリハリのある生活も保障したい。ただ好きな遊びの生活が担々と続くものでもないし、決まりきった内容の行事の繰り返しでもない。没頭して遊びこめる安定した日常的な生活に「非日常」的な要素が様々に入りこみ、今までの日常がさらに豊かに再構成される、そんな余地がある生活です。その中で一人一人が自身のテーマを見出し、遊びと生活を通じて、空間を使いこなし、モノと関わり、人と出会い、緩やかな時間の流れの中で、木の花の文化・風土を感じながら、一人一人の個性を重ねて園生活を紡いでいきます。

おやじの遊び心(父レク)が子ども達の日常、さらに行事(創立記念日)へ波及

④「流れ」のある日常から自ら「テーマ」を見出す

 生活にはさまざまな「テーマ」が潜み、それぞれの子どもたちとともに生まれ、個々の子どもの育ちに応じて展開します。そんな「テーマ」が無数に生まれるために必要な「流れ」のある生活を用意したい。そこにつながっていき、そこからつながっていく・・・連続性。場所も時間も人も文化も。「連続性」を伴う活動こそが、子どもの遊びが学びとなるためのポイントです。そして様々な環境から「テーマ」を自分で選び取る多様な機会の提示(協同の場合もあるので「自分たちで」というときも)。「テーマ」は無限で人それぞれ。・・・自分にとって必然的な課題だから、自分で、あるいは自分たちで考えるのが楽しい。いっしょに考え合える人との出会いがまた楽しい。楽しいからずっと考える。(学びに向かう内的な動機。賞罰や巧い下手で、「将来のために」と外からコントロールされるものではなく。)時にはとてつもなくいいアイデアが浮かび「ぼくってちょっとすごいかも」を体感します。(これが自己肯定感。)

⑤「非日常」って?

 では「非日常」とは何でしょうか?例えば行事(運動会や木の花まつり、発表会など)やお茶のように意図的に組み込んである非日常の取り組みもあるし、家庭、地域で失いつつあるもちつきなどの「本物」体験、また包丁、針、金槌、ノコギリ、ダンボールカッターなど、普段なかなか扱えない、ちょっと危険な道具との出会いも幼稚園の日常的な遊びの中の「非日常」。あるいは逃げ出した亀を探すために急遽相談してポスターを作って近隣のお店屋や学校、施設などへ捜索のお願いにいったり・・・などの日常に潜む偶発的な出来事も「非日常」。あるいは地域に出掛けて出会う自然や社会生活との緊張感のある体験も「非日常」な出来事のひとつ。あるいは父レクなど保護者参画の保育企画も「非日常」。そんな緊張感と自信と楽しさを生み出す余地をふんだんに抱えた生活です。決まりきった時間割のある学校生活のようなカリキュラムの日常ではなく、創造的な豊かな生活が構築できる「連続性」と「多様性」のある柔軟なカリキュラム編成を心掛けています。

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一枚のキャンバス(画布)に描く日々の学びの物語

   木の花暮らしでの子どもの物語を一枚の画布に例えると、「画布」の横線は環境としての空間(モノ)の要素、縦の奥域は一日の時間の流れ。この「空間」と「時間」の二つの要素に囲まれた「画布」に、一人一人がその子なりの「テーマ」を見出し、多様な友だちや大人、様々なひとと出会う中で「テーマ」がさらに展開し、つながり、「テーマ」を実現していく過程で、園文化・風土の色彩を混ぜながら、その子なりの学びを深めていきます。時間・空間(モノ)・ひと・文化(注⑥)の重なりの中で、一日一日の集積が、子どもたちのそれぞれの学びの姿、育ちの力。入園当初はやや小さめの「画布」に交わらぬ一本の薄い色彩の物語かもしれませんが、日々一枚一枚重ねるにつれ、「画布」は広がり(時間と空間)、縦軸の年月(行事)を潜りながら、混ざり合う線描(ひと)は縦横に増え、色彩(文化)は濃さを増し、試行錯誤の中で子どもの描く学びの物語は、複合的に多方面に膨らみその子自身の中に刻まれます。

⑥時間・空間(モノ)・ひと・文化

 木の花暮らしの基本的な柱が「流れ」のある生活、日常と「非日常」が織り成す創造的な生活、であるとすると、そうした「柱」で囲む要素、家に例えると、「壁」はどのようなものを組み入れる必要があるのでしょうか? 私たちは、現代の子ども達が失った(失いつつある)時間と空間(モノ)、人(仲間)、そして、文化という四つの要素が不可欠と考えています。ポイントの一つ目は、「遊びこめる空間とモノ」。子どもの遊び心を満たし、更なる遊びを引き出し、子どもにとって家庭(私)と離れた社会(公)としての二番目の“家”と思える「基地」となる環境であり、工夫したり想像したり使い方に創造の余地のある多様なモノです。二つ目は「ゆったりと流れる時間」。季節感を帯びた自然の流れに沿った時間という要素がひとつ。三つめは、多様な「ひと」との出会い。様々な子どもたち、そして多彩な保育者集団、未就園児や学齢児童、学生、様々な父母、そして祖父母、また家庭を伴った交流、地域の人たちの出入り等々多彩な人との関わり、出会いです。そして四つめが「生活」の中で、あまり意識されない風土、あるいは文化。生活を築く雰囲気、歴史的に培われた園の土壌となる精神的な基盤です。

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