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木の花の考え方3/4

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大きい布や長いヒモをもって走ってたり、大型積木を高く積み上げたり、楽しそうだけどけがしませんか?

危なくないですか?

安全か、危険か? 自ら判断できる力を培うのは体験を通じてこそ。
危険からすべて子どもを遠ざけることで得られる「安全」は、大きくなってからリスクを判断できない大人を育ててしまう「危険」はありませんか?失敗や痛い思いも子どもにとっては大事な糧です。

 自分で考えて動いている時には、けがは少ないものです。そもそも、子どもは本来、転び上手。転びながら、身体のこなしを身につけていきます。自由遊びの個々の動きは危なそうに見えるかもしれないけれど、私たちが安心して見ているのは、ここは、そのように作られている建物だから。
 広さと拡がり。そして材質と仕様。例えば床は体育館仕様。木のフローリングの下にはスプリングが敷きつめられています。
 安心の理由のもう一つは、子どもたちの動きが、子どもから子どもへと伝わってきたものだから。例えば大型積木。その遊び方、扱い方は、何年もかけて、言葉ではなく身体から身体へ受け継がれてきたもの。年少さんが、年長さんの組み上げた積木のはしっこに上がってみる。年長さんが離れたスキにてっぺんまでよじ登って、そして大きな積木を持ち上げてみる。年長の子どもたちの動きが、小さい子どもたちに映って、遊べる身体になっていく。こんなことは、おとなは教えられません。
 「気をつける」ことも「危ない」ことも、使わないと子どもは学べません。お庭で火を燃やしてお料理します。包丁も使う。かなづちも、のこぎりも、縫い針も使う。子どもたちの周りから、取り扱いに注意の必要なものがどんどんなくなっています。見
る機会さえない。それなら、幼稚園で見ればいい。幼稚園でするしかない。
 年長の子どもたちが扱う姿を、小さい子どもたちがやってみたい気持ちを高めながら見ていて、そして次の月に、あるいは次の年に、自分たちの番。気持ちのいい緊張感と誇らしさとをセットに「危ないもの」と向き合っていきます。
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けんかしているのに止めないんですか?

トラブルは人間関係の調整力を試される貴重な機会!
他者との折り合いをどうつけるか?「ごめんなさい」というような形式が大事なのではなく、自分の気持ちと相手の想いをどう調整し、どのように対人関係を作り、手直しし、新たに築くのか? 自ら内省できるチャンスと時間を保証したい。

 止める場合も、止めない場合もあります。でも、決まった基準なんてありません。まず、たいていの子どものけんかは当人たちで収束できるので、できるだけ、そこまで待ちたい。でも、転ぶと危ない場所で、一人に大勢で、棒を持ってる・・・・ルール違反だと判断したり、危ないと思えばおとなが間に入ります。ただ、その子たちの関係を知っている私たちスタッフが止めるタイミングは、その場だけを見た方が止めるタイミングとは違うかもしれません。(でも、見かけたら、遠慮なく、ご自分の判断で止めて下さい)。
 だいたい、けんかになるのは、興味がいっしょで衝突しやすいか、あるいは、何か相手に惹かれるものがあって近づいてしまうから、という場合が多いのです。 つまり、共有できるもののある、友だちになる可能性のある相手だということ。くたくたになるまで取っ組み合いして、すわりこんで、そして笑いあって終わりになるのを見たら、子どもはけんかして確かめているものがあることがわかります。 そこまで確かめて友だちになる関係もあるのです。
 
 最近の子どもたちは、小さい頃から常におとなに見守られていて、けんかになる前に止められています。(公園で自分の子が相手に手を出しそう、相手のおもちゃを取りそう、という時に「けんかも大事ですから」とは親は言えませんから) 。
 でも、その結果、おとなの「仲裁」で、本当の友だちになる機会を失ったり、気持ちのコントロールを学ぶチャンスを失ったりしている子が少なくありません。けんかもしてみればいい。そして、その結果を自分で引き受ければいい。気まずい思いをひきずって降園して、家で「明日どうしよう」ってタメイキついて・・・・。それが結果を引き受けるということ。そして次の朝、お互いに目が合って、お互いに相手が困っていることがわかって・・・笑い合って・・・おとなが入らないからこそ学べる人間関係があります。
 
 人と人との関係は、何日も何ヶ月もかけて試して悩んで、作っていくもの。トラブルのない平穏な日々が、「いい関係」というわけではありません。その場面だけ見たら止めたくなるけんかも、それまでのその子たちの関係を知っていると止められないことがあります。この子があの子に向かっていけるようになった。やり方は下手だけど、もう少しやらせてみたい。やってもいいんだ、イヤだと言っていいんだと知った方がいい。あの子の驚いた顔。自分の思い通りにならないことがあった方がいい。・・・その子たちの小さい頃のこと、兄弟や親子関係のこと、いろんなことを思いめぐらせて止めるかどうかを判断しています。
 でも、私たちスタッフも子どもたちの人間関係のすべてを知っているわけではありません。私たちの知らないところで起こっているトラブルもたくさんあります。隠れてしていることもあります。「あれ?」と気になることがあったら、ぜひ幼稚園に教えて下さい。そして、何が起こっているのか、私たちの目で確かめる時間を下さい。
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子どもが泣いているのに先生は声をかけないんですか?

 泣いたらすぐに先生が駆けつけて…という対応はしません。この子は自分でなんとかしそうだと思ったら、泣いていても声はかけません。大泣きしてすっきりした顔で切り替える子もいるし、周りを見回して、なんだ誰もいないのか、とすっと立って行ってしまう子もいます。周りの子が声をかけたり、なぐさめたりして友だちとの関係につながっていくこともあります。だから、何があったのかな、けがしてないかな、と気はかけるけれど、泣いたら「必ず先生が飛んでいく」ということはありません。 
 泣くことでおとなにアピールするのが上手な子もいます。泣いたら相手の子が怒られて解決。あるいは泣いたら「もういいよ」と苦手なことをしなくてすむ。おとなを動かす方法としての「泣き」。それもその子の能力だけれど、おとなを引っ張り出さずに、自分でなんとかする経験もしてほしい。
 いつもおとなに解決してもらっていては、本当の自信にはならないのだから。泣いてはいけないと思い込んでいる子もいます。そんな子が泣いたら、泣きやまそうとはしません。大泣きや大暴れは気持ちいい。その気持ちよさは、子ども時代に知っておくべき大切な感覚。幼稚園は泣いてもいいところ。広いから大声で泣いてもかまわない、そんな場所です。

「泣く」もその子の自己表現、その本質を掴まえたい!
幼児期にたっぷり経験しておく喜怒哀楽の感情表現。泣く行為も大事な感情の一つ。生理的欲求?不快の感情?気持ちの発散?相手へのアピール?・・・そこに込められた真意をとらえたい。

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靴をはいてる子もはだしの子もいるけれど、どっちでもいいんですか?

自分の判断で自分で決める!
行動の根拠を自ら見出して自らの責任の下に行動してこそ主体性が育ち、また自分と異なる考え、価値観の他者への受容、多様性を尊重できる、と考えています。

 そう、どちらでもいいのです。この「どっちでもいい」はとても大切なことだと考えています。
 それは、自分で決めていいということ。同時に自分で決めないといけないということ。靴は、通園に履いてくる靴のほかに、内履きズックとお庭用のズックを幼稚園に置いておくことになっているけれど、履くかどうかは自分で決めればいい。足をけがしてる日には「ばい菌はいるから今日は靴はいとらんか」、お茶のお稽古の日には「白い靴下だから、汚れないように靴も履いとかんなんよ」・・・必要なことは、一つ一つ伝える。そういう会話を通じて子どもたちは「何を基準に判断すればいいのか」を学んでいきます。
 その子によって似合う服は違います。寒さ、暑さの感じ方も違います。する遊びも違います。同じ服でいる必要はありません。自分が何を好きか感じられる、って素敵です。きまりが多いということは、自分で判断しなくていいようにしてしまうことです。考えることを楽しめる子に育てたいから、できるだけ「きまりごと」は少なくして、その時その時に、子どもが自分で、あるいはおとなといっしょに「判断する生活」にしておきたいのです。
 
 「どっちでもいい」と関連することに、「満3才入園」と「預かり保育」があります。
 3歳のお誕生日が過ぎたら、翌年の4月を待たずに年度途中から幼稚園に来てもいいよ、が「満3才入園」(私達は「プチちゃん」と呼んでいます)。外の世界に気持ちの向く子・周りに合わそうとして疲れる子・周りに誰がいてもマイペースな子・おとなより子どもが好きな子・おうちではエネルギーが余って親がつきあいきれない子・この子がいてくれないとお母さんがさみしい・この子といると口やかましいだけの親になっちゃう・・・・親と子の関係は、様々です。だから、いつから幼稚園に行くかは、子どもと親の諸々の要因で、それぞれに決めればいい。
 木の花の満3才入園は年少クラスへの編入にしてあります。年少さんだけは2学年の混合クラス。同じ学年の子の同時スタートだとおとなは知らず知らずに子どもを比較しがちです。そんなおとなの目に影響されて、子どもの力関係が決まったり、振舞い方が決まってしまったり・・・・。
 幼稚園のスタートはもっと、ゆるやかでいい。頑張らずに、自分らしく始まればいい。そのために年少さんは2学年混合にしました。そしてプチちゃんが次年度に年少さんとして新しい3歳児を迎える、兄貴分、姉貴分となり、古株としての存在感をもって幼稚園生活をリードしてくれ、さらに年中さんに上がった馴染みの友だちと年少さんとをつなぐ橋渡しの役目を、結果的に果たしてくれています。
  
 幼稚園で過ごす時間は、子どもによって違っていい、そのために遊び場提供しているのが「預かり保育」です。家庭と、従来の幼稚園カリキュラムの間にある生活。
 ちょっと前なら「町内」「近所」あるいは「道端」で子どもたちがしていた時間の過ごし方。おとなはどこかで見ているけれど子どもにあまり構わない、そんな時間と空間。幼稚園だけど、通常の自由遊びの時間とは違う。ホールの遊具庫は開けないし、残っている友だちも違っていると、普段の遊び方も変わってくる・・・今日はいつものメンバーがいないら、小さい子と遊んでみたら、結構おもしろかった・・・僕のお母さん、お迎えに来たのに誰かのお母さんと話してるよ・・・・赤ちゃんが水溜りに入っちゃったよ、僕抱っこしていこうっと、服が汚れたら先生に言って幼稚園の服を借りよう・・・・もちろん、おうちの都合、お母さんの都合で預かり保育を利用してくださって結構です。幼稚園は、緊急お手伝いの場として、できるだけ協力します。
 けれど、預かり保育のねらいは、お母さんの就労支援や休息保障ではなくて、「もうちょっと幼稚園で遊びたいなあ。友だちもいるし」という子どもたちに時間と空間を用意すること。「町内」や「近所」を失ってしまった今の子ども達の生活が拡がるように…。
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